某SNSですが、ってミクシしかないけんどなw^_^;、を、もうそろそろミクシも「お前国をあげての一大サイト」となるんでしょうか、ミクシ見とらんのは非国民だとなる日も近いぜ
それでですね、某有名大学の学生さんですが、ミクシで「国をあげての一大イベント」とぶちあげた。ところが少しそれではヤバいとでも思ったのか、約30分後に「ごめん間違えた。。国→世界やった」と訂正を入れた。
「世界をあげての」という国語は正しいのか。非常に疑問である。それは上げ足取りになりかねない。そのようなところで苦言を呈しようというのではない。
問題とすべきなのは「国をあげて」という感覚。現に、そのあとに「非国民め!!!」と続く人間まで現れた(これとてヤバいと察知したのか)。この「国をあげて」という言葉が容易に発せられることに、非常にキナ臭いものを感じるのは自分だけなのか。たかがスポーツごときというなかれ。これまでスポーツがどれほど政治に使われてきたか、そんなものはダ・ヴィンチコードなんかよりはるかに明白である。
頼むから静かに観戦してくれ。世の中にはほとんど興味を示さない者もいる。ラブホで69しながら観戦してたのもいるだろう。それらすべてを認めてこそ、ワールドカップたるものじゃないか。
阿部定がこれほどに歴史に名前を残したのは「お国をあげて」いた昭和11年に、「お国」などまったく関係のないレベルで吉蔵のチンチンを懐にかき抱いていたからじゃないのか。それでも阿部定を責めますか。