補陀落だぁ〜〜(^。^;) →まごれびゅ
ウンコしながらでさらっと読む用にトイレにもうほったろ(捨てよう)という雑誌を置いてる。あえて出典は書かないけど、こういう文章ってどうよ。
《前方にそびえ立つ岩手山を時速120キロで手繰り寄せ、やっとの思いで左のバックミラーに閉じ込める。》
という書き出しで始まるのだけれど、ぅ〜ん、なんかこいつ自分に酔ってないか? 一時、こんな文章に煽られて、バイクを乗り回してた自分がちょっと恥ずかしくもある。まぁ、だいたいライダーなんて、自己陶酔の世界だね。単なる移動の道具に過ぎないのに。だからって、10数年になるバハをいまだに廃棄できないでいるのですが。。。。 やっぱりこの雑誌もこの文章もバブリーな時代の産物だったんでしょうか。
中学生のときの映画『007は二度死ぬ』の原題は「You Only Live Twice」.その大元がこの「You Only Live Once」 『死刑執行人もまた死す』と双璧をなすラングの代表作。
ヒチコックって観たんだったか、チラ観だったのか、忘れてしまう(^。^;) この『めまい』だって、ラストが自由の女神のシーンだと思ってたら、それは『逃走迷路』でし(-。-;)
見せちゃいけないもの、それは見せたらおしまいだろうというものが絶対あると思うのだが、このズラウスキーってのは臆面もなく見せてしまう。それには閉口した。ってね、それは同じ監督の『ポゼッション』(アジャーニ主演)でも思ったことで、「もういいです、こいつは」ってつもりで、まごれびゅ書いてるのに、なぜか、短い紹介文とか、これってたぶんにエロっぽいのじゃないとか、つい騙されんだよな。おバカ...
先週に比べれば、ヒマってったらヒマ。気になる『植物図鑑』を読む。
<イメージ>とは極論すれば、作家たる個がもつ世界についての像であり、それは個に先験的に備わっていなければならなかった。(略) 作家はア・プリオリなイメージに従って世界を見、世界に触れることが要求されていた。だがそれは結局のところ個による、さらに言えば、人間による世界の歪曲、世界の人間化を意味するにすぎなかったのではないのだろうか。
作者たる個人がもつ世界についての像が全てに優先され、それを作品を見、作品に触れる多数者のもつ同様な像に合致させるということがすべてであり、と言うことは、彼らが慣れ親しんだ既成の図式、彼らが現実に対してもっている既成の概念を裏切らず、それらに照準を合わせて解説してみせさえすれば表現行為は終わったのである。 だがそのことは世界をあるがままに視つめることではなく、それどころか世界から眼を閉ざすことを意味したにすぎなかった。われわれの眼は眼窩の内側にひきつけられ、反転していた。
L' HOMME DU TRAIN 90分 (2002 フランス/ドイツ/イギリス/スイス) 監督 パトリス・ルコント 製作 フィリップ・カルカソンヌ 脚本 クロード・クロッツ 撮影 ジャン=マリー・ドルージュ 音楽 パスカル・エステーヴ 出演 ジャン・ロシュフォール / ジョニー・アリディ / ジャン=フランソワ・ステヴナン / チャーリー・ネルソン / パスカル・パルマンティエ / イザベル・プティ=ジャック / エディット・スコブ
ミクシのとある人が書いている日記を読んでいて、最近手に入れたタブロイド版中平卓馬の表に記されていたことばに思い至る。その日記とは真逆。
自意識を解体すること、それをすすんで引き受けること、それが私の考えること、その自意識の解体と再生を自らすすんで引き受けること、それが写真家として止む事なく私が考え、引き受けつづけることである。
ん?これって、『なぜ、植物図鑑か』にあったかと、大急ぎでパラ見。 見つからず。かわりに気になることどもがあっちこっちに。また真剣に読み直さねば。正月休みの課題か。
それで、ふっと思ったのが、「自意識」は解体されてしかるべきだが、「私意識」は逆に紡ぎ出すべきだと。たは、ボクが言うと、単なる言葉遊びに終わってしまいますが。わかる人にはなんとなくわかるでしょ。自分でもうまく説明できませんが^_^;
GRD4にわざわざ富山から来てくれた人が、熱烈な(?)まごれびゅファンでプリントアウトしていたと。あんなに独断と偏見に満ちているのに。彼のご要望にこたえてぼちぼちエンピツでも復活。まごれびゅインデックスはhtmlの出し入れftpしなきゃダメなのでまだよう手をつけれん。思えば、あの当時はヒマだったのかw というわけで、エンピツとあっちに、同じだけ入れておきました。ちょっとおとなし目というか、れびゅになっとらんですね。