ふらっとアセンスによったら、なんと大道の新しいのが2冊も並んでるじゃないですか。瞬間的にレジに持ってっててる人。家に帰るまで待てなくて、スタバに座って、ページをめくり始める。 うわぁ〜っ、やっぱりかっこいい。なんと表現すればいいのか、ここ最近、ボクが置き忘れていたことどもが、がつんがつんと網膜を焼いてくる。思わず、ページを開いたままでカメラを構えてしまう。そう、いい写真というのは、写真に限らず、観賞するものじゃなくて、人をつき動かすというか、次の行動のきっかけを与えてくれる、ということをあらためて痛感。観賞するだけなら爺いにまかせておけばよい。
してこちらは聞き慣れぬ「宅野」という言葉。大道の父親の墓のある島根県の地名。2年前の春にも島根県立美術館で大々的な森山大道展が催されたのは、その関係らしい。 はっきり言って、なんもないです、宅野には。なんもないということは逆にすごい魅力であって、ボクについて言うと、そのなんもなさを求めてこの夏には九州まで写真を写しに行ったはずなのに、なんもないことにめげて、何かを求めようとして中途半端な旅になってしまった。 で、大道はどうなんだって、そうなんだよなぁ、とにかく当たり前に写すこと、それを見せつけられたって。ふーっ
わおー、いま調べたら宅野って、太田と温泉津のちょうど真ん中じゃない。ああ、温泉津また行きたいなぁ。
で、きょうはどういう日だったかというと、まさに「なりゆきまかせ」な日だったのです。起きて、ぼーっとマックの前に座ってると、酔狂から「いまからHDDもっていってええか」と電話があって、ま、1時間ほどで済むだろうと思ってたら、何時間もかかりそうなので、その間に天天有にラーメン食いに行って、それでもまだ終わらなくて、酔狂は3時に家に帰らないといけないと、2時に作業は中断してさっさと帰ってしまった。
というわけで、この天気のいい日にぼーっとしてるのももったいないし、ほんとなら京都くらいまで遠征しようかと思うてたくらいだったので、よっこらせと出かけて、あ〜、やっぱり荒木経惟の『写真の話』を読みかけてたのが、ちょっと刺戟ックで、ちょっとはマシかなと思えたんだけど、やっぱり今は、「廃れ」は写したくないという欲求が強くて、それはこの半年、ずっと続いてるのだが、「廃れ」って結構受けるもんだし、意外と「廃れ」って写しやすいんだよなぁ、誰も見とらんから、それでついつい安易に「廃れ」ばっかり写してしまって、そう、キミも「廃れ」ばっかし写してたらダメよw つうかね、まぁ、荒木経惟のご託宣により、あ、別に荒木経惟が「廃れ」を写すなとは言うとりませんですけど、かといって、それでもやっぱり「廃れ」もちょっとくらいは写してんだけど、それはしばらくお蔵入りにしてしまいますよ。「廃れ」を前面に出したらやっぱいかんよ。で、そうしてたら、大道の写真集を見つけて(ちゃんと大道のサイトチェックしとけよな)、ああ、ボクってすぐのせられちゃうから、勇気百倍よw
わけわからん話でごめんなさい。ボクの単なるメモです。