久しぶりに覗いた四角い世界は悪くない。撮らない間は次に撮るときの自分をいつも想像していた。だが結局どうせまた同じものであろう、という事がイヤだと思っていたが、こうしていざカメラを持ってみると写るものなど特に関係なかったし、何よりもそれらを持ち帰ることができるという行為がただ嬉しかった。壊れたと思っていたカメラなので写っているかどうかの確証はない。でもまぁ全部素ヌケでも特に困ることもない。道具などすぐ変えて、また明日も撮れればいいんである。
このスタンスに激しく同意。見せることを思案する以前に、撮るという行為。
元町に着くまでの間に1本撮りきる。前の残りからだから20数カット。元町に着いたら入れ替えようと。いざ、元町でフィルム入れたポーチを忘れてきたのに気づく。ちっ。デジタルがあるからいい。
タントテンポの「未来の写真」をテーマにしたサロンにパネラーとして参加。どんだけ言いたかったことが言えたやら。一番、思うのは、中平の「だがそのことは世界をあるがままに視つめることでなく、それどころか世界から眼を閉ざすことを意味したにすぎなかった。われわれの眼は眼窩の内側にひきつけられ、反転していた。」なのだが。プリントの質などそれはあとでどうにでもなる。乱暴な話、どうにもならないならプロのプリンターにまかせりゃいい。それより、「受動的」に受け入れてくるか、つまらない己の意識を排除して撮ってくるか。いくら演奏が上手かろうがつまらない音楽はつまらない。 ロラン・バルトのことばを借りるなら「写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、《技巧》、《現実》、《ルポルタージュ》、《芸術》等々から引き離されるときである。何も言わず、目を閉じて、ただ細部だけが感情的意識のうちに浮かび上がってくるようにすること。」その一歩として「撮れちゃった」上等。「シャッターを押す瞬間、撮り手がそこにこめるコンセプトやテーマ、ましてや半端な思想などは、その膨大な情報量の前に意味をなさない。(森山大道)」のだ。