もう6年ほど前に『春の雪』バージョンで、雪の月修寺(円照寺)に行ったけど、今回は『天人五衰』バージョン。
「汗がワイシャツを拔けて、背廣の背にまでにじんでゐるのが感じられる。暑さの汗か油汗かわからなかつた。ともあれ年老いてからこんなに汗みづくになつたことはなかつた。」
というわけで、炎天下で汗だらだらで歩かないといけないのだった。詳しいことは本まごのほうに書くつもり(そうでもないとネタないやね)
天王寺-奈良450円、奈良-帯解180円。なのに、天王寺-帯解を一発で買うと740円。この110円の差は何なんだ! もちろん奈良で乗り換えるときに一度改札を出て奈良-帯解を買うたけど。これは近鉄との競合(ナンバ-近鉄奈良540円)で運賃を抑えてるから。余裕があったら別々に買いましょう。
しかし奈良からたった2駅なのに、帯解の田舎駅ぶりときたら、無人駅だし走ってる列車はワンマンで、2両連結のくせに前の車両しかドアが開かない。後ろの車両に乗ってたら手動でさえもドアは開かない。おかげで帯解で降りれずに一駅乗り越したやんか。もちろん乗り越しの往復分の運賃は払っとらんよ。
奈良公園には鹿がいっぱいいました。でも奈良ではあまり食うところがないので、かき氷だけ食って、さっさと上六に戻って南海飯店へ。南海飯店はやっぱり安くて美味くてすてき。
最近では、お医者さんは身体を見るというより、データの数値を見るという方に傾いているけど、「電子政府」というのは「役所の合理化」というわけで、それは国民という存在をデータ化して、現実を見るよりその数値化したデータを見て政策の作成と実行を完遂させるということなんでしょうね。データと現実との間には必ず隙間がある。DNAまでわかってしまう世の中だから、データ化されないところはほとんど無くなってしまうかもしれないが、データ化されないところが必ずある。その非データ領域をどう掴まえて行くか、そこのところだ。管理や支配のベクトルはデータ化に向かっている。でも、個々の生命のベクトルは管理や支配のベクトルとは違う。それはデータ化できない多様なカオスに向かうとでも言ったらいいですかね。
今にはじまったことでないけど、いわゆる「偏差値教育」 なんぼなんぼならどこそこの高校(大学)と輪切りにすることしかできない教師。どこそこに何人合格したと一喜一憂しかできない教師。コンピューターのデータこそ「生命線だ」などと信じているバカ。みんなまとめて糞ったれ!