twitter始めてもうそろそろ1年だってのに、@のルールわかってなかった。別にたいしたことないんだけど。つまり HogeA(発言者) @HogeB(リプライ先) うじゃらくじゃら・・・・・ というツイートがあったとする。
ふ〜、ややこし。フォローしているHogeA(発言者)のツイートが全部流れるんだと思ってた。そのほうがすっきりするのに。話の流れを読むためには、いちいちhttp://twitter.com/HogeAを見ないとアカンのね。まぁ、逆にウザいのは見えないというメリットもあるね。で、誰に見られても困らんようなリプライの場合は、どうせ個別のTLを調べたら見えてしまうんだから、「@HogeB」とするより、積極的に前に「.」でもつけて、「.@HogeB」とする裏技でも使ったらいいかもです。
ぼくはうまれつきナマケモノでね、毎日ほどんどボケッとしてるわけ。 変な言い方だけどさ、ぼくはボンヤリしてるときほど生き生きしてるのね。 だからフリーカメラマンなんてどっかエタイの知れないありようはすごくぼく向きでさ、けっこうのんのんと気に入って遊んでるわけ。 それはやっぱりね、いつまでたっても写真てなんだか面白いしね、べつにそれほどほかに気を引かれるってものものないからね。 フッと気が向くとカメラ持って街ほっつき歩いちゃパチリパチリとやってはスナックなんかでボーッと水ワリ飲んでんの。それで夜なんかフイとその気になると暗室に閉じこもってね。仄赤い電灯の下でジワジワ浮かんでくるいろんなイメージを眺めてるわけ。ぼくの場合どうもとめどなく写真と生活とがゴッチャゴッチャになっちゃってさ。生活のなかに写真があるのか写真のなかに生活があるのか、ま、どっちも同じでどうでもいいんだけどね。だからぼくの日常で言えば、コンスタントに作品の制作にいそしむとか、ひたむきに対象に立ち向かうとか、バンバン依頼仕事をやりこなすとか、そんな感じとまったく無縁なのね。で、つまり、結局ぼくには職業って意識とか仕事っていう観念が決定的に稀薄なわけ。さっきも言ったけど、ぼくは本当にナマケモノだからね。ナマケるだけナマケて生きていたいってのが終生のテーマだね。どうもぼくには、勤勉で前向きな芸術家だとか、明快で確固たる主観をもっている作家だとかうさんくさくてね。それはまぁ人それぞれだろうけどね。一応立派だなぁとかスゲェーなぁとかつい騙されそうな人もいるけど、やはりぼくには無理だよね、そんなの。それから日ごろいろいろ思ったりするんだけど、やっぱりぼくなんかどうあれ遊んでるわけね。遊び人。写真とかかわろうがかかわるまいがとにかくすべて遊びね。ぼくはどういうわけかたまたまカメラなんか持つようになっちゃったけど、本当は登山家かコメディアンになりたかったのにね。 で、ま、それでカメラなんか持ってそのへんウロウロしてるうちに、ついついそのセンにかかわってしまうことになって、そうすると次にまたついついそのヘンにこだわりができてしまったりしてね。そんなこんなで右往左往しているうちにアッというまに何十年も遊んできてしまったって感じだなぁ。でもまぁ、たまたまにせよぼくにはカメラってモノがあったから、さして面白くも無い世間でも、なんとかそれを使って自分自身を面白くしてきたってことはあるよね。ちょっとばかりいいわけすれば、遊ぶんだって多少の決意や技術はいるわけだからさ。たとえば、いまぼくはこの渋谷の坂の中途のビルに部屋を借りて、その一室で小さなプライベートギャラリーを作っているけど、これだってぼくにしてみればささやかな遊び場でね。新宿の飲み屋のトイレなんかでフッとひらめいたりしたときに、とにかくすぐにこの壁面を使って展覧会らしきものを開いて、知人や友人たちを読んで遊びに来てもらったりすることができるんだよね。それから、ぼくが二年前から借りているパリのアパートにしても、あの四階のスペースがあると思うから、ぼくみたいな面倒くさがりでも気軽にヒョイヒョイ出掛けて、それを拠りどころにヨーロッパの街角なんかでナマケていられるのよね。さっきもちょっとテーマのこと言ったけど、もともとぼくには写真的テーマにしろ生活的テーマにしろ、そんなものほとんどもってないわけね。ま、ミもフタもなく原則を言ってしまえば、ぼくがいまここでこうやって生きていること、それだけがさしあたってのっていうか、抜きさしならないっていうか、唯一のテーマなんだよね。それで、その時間のなかでゆくりなくも写り込んでくるものが結局ぼくにとっての写真てことね。それも、ぼくは自分で自分のみたいものをっていうか、自分に向けてっていうか、そんなふうに、そんなものばかりしか撮ってないから、ぼくの写真って、つまるところきわめて私的なメモにすぎないわけね、いわゆる日記だよね。だから東京にいてもヨーロッパにいても東南アジアに行っても、ぼくにとっては行った先にテーマがあるわけじゃないし探すわけもなくて、たまたまそこにいる僕の気持ちとその周辺だけが重要なキーワードなのね。そんなときに、その場のものごとやなんかに突如ダダダと熱中して写してしまったりしてね。そして持って帰ってしばらくすると、また急にプリントしてみたくなったりしてドドドッとやるわけ。まず自分でワクワク眺めて所有したくってね。なんだか自分でもよくわからないんだけど、水のなかでヌレヌレしている自分のプリントのイメージにときめいていたりしてね。もちろんほかの人に見せたい見てもらいたいって気持ちがないわけじゃなんだけど、何がなんでもって感じじゃないね。ともかく自分ね。だからさ、偉そうに言えば、他人さまには、ま、ついでに見せてあげるよって感じだね。それでね、そんなふうにしばらく遊んでいるとまたフイと飽きてきちゃってね。気が付くとノンベンダラリとナマケ世界に入っちゃうわけ。だからぼくと写真との付き合い方って、いつも衝動的で無計画で気まぐれなのね。だって仕方ないよね。タコの足じゃあるまいし、自分のやってることいちいちプツプツと区切って生きていけないよ。もっとこう長いスパンでさ、デレデレいろんなことやってみたいよね、どのみち遊び人だからね。遊びに完成とかってないしさ。そしてどうしてもぼくの写真がほしい、どうしてもぼくのプリントを買いたいって人だけを相手に細々と商ってさ、そのお金で1分でも長くボンヤリ過ごしていたいね。でも、こんなことしゃべっていられたり、こんなふうに生きていられるってこと自体かけがえのない時間なんだよねきっと。カメラなんかぶら下げていつまでも遊び呆けていられるといいんだけどね、写真面白いからさ。 「森山大道の視線」「プリンツ21」 1991年1月号
「森山大道の視線」「プリンツ21」 1991年1月号
某氏が自分で入力したのか、同じナマケモノのくせして、こういうことになると、妙にマメ。どうせまた削除するんだろうし、もったいないから、こっちに引用しとこ。 しっかし、この話っていいよね。「遊びに完成とかってないしさ」で、「カメラなんかぶら下げていつまでも遊び呆けていられるといいんだけどね、写真面白いからさ。」てもうたまらないでしょ。こないだustで、大道さんは「僭越だけど、ウォーホルって兄弟みたいなもん」と言ってたけど、こういう話を読むと、僭越ながら大道さんってアニキみたいな気がする。ヤバい写真、撮ってたいから仕事やめて、遊びほうけてんだから。偉いもへったくれもない。四六時中、カメラもって遊んでたいから、がっこの教師なんてバカくさくなったから、辞めただけやん。辞めるのもこの先どうなるか目算ついたから、早い話がズルいんだよ、カッコよくもなんともない。 ほんと。どうでもいいんだよ、ごじゃごじゃとうるさすぎる。
これもいつ削除されるかわからんから、削除されないうちにもらっておこう。
ぼくに、思考、思索、思想などいっさい向いていない。 日ごろから物事を考えないようにしている。 だいたいこの世のことは、考えても仕方のないことか、考えるまでもないことかのどちらかだ。 まぁ人間、生きていれば、起きていれば、いや寝ていても、否応なく四六時中、脳髄も五感も六感も、ぐったりするほどチラクラ働いているわけで、もうこれで十分ではないか。 ものを考えないとオバカサンになるなどとよくいわれるが、考えなければやっていけない人などもともとオバカサンで、ホラよく、ヘタな考え休むに似たり、というではないか。 昔パスカルは、人間は考える葦である、などとつまらんことを言ったし、ロダンなど「考える人」などという不気味なシロモノをデッチ上げた。 まぁ昔は、そんなことをいってりゃァすんだのだろうし、考える事、イコール、深遠という図式が成立したよき時代だったのだ。 しかし、哲学などというエタイのしれないものが解体してしまったいま、考え込んでいても、グッドアイデアなど出てくるわけがない。 つまり、イモを掘ってりゃ報われるってもんじゃないのと同じで、考えてりゃすむってもんじゃないわけだ。 人間は直感と実行あるのみ。世の中、そんなにむずかしいことなんてねぇってば、というのがただいまのぼくの考え。 人が、何事かをじいーっと考え込んでいる図なんて、考えただけでおっかない。 モリヤマさんは、モリヤマさんの写真は、そしてその写真そのものは、今後どうなるのですか?と、しばしばぼくはひとから問われる。現にいまだって、目の前にいるひとからそう問われている。 つまり、ぼくと写真の、この先の計画や展望、そして写真の将来に付いて聞かれているわけだが、ついさっき記したように、ぼくは「考える人」ではないのだから、そんなことはまったくわからない。 だいたい、オレは写真家でござい、などとしゃっ面さらして生きていること自体、もともとフロックみたいなもので、本当はコメディアンになりたかっただけだ。 それでも昔は、若気のなんとやらで、暗い目をして写真とは?オレとは?オレと写真とは?なーんてふうだったが、いま思えば、頭から灰をかぶって寝てしまいたいというか、穴があったら木に登りたいというか、恥ずかしい。 そんな、目の前に心理のぶら下がってるようなことを考えてるヒマに、もっと撮ってりゃよかったのだ。 だいいち、真理とか真実なんてあるわけもなく、あるのはド現実だけで、もうこれだけで手いっぱいだ。 つまり、写真とは?とか、これからの写真は?などと、ゴマメの歯ぎしりをしているから、写真が遠くなってしまうし、写真がダメになっていく。 このところ、なんとなく写真がアート志向らしいが、バカを言っちゃいけないよ。写真が、カメラマンがアートなんぞを志向したら、それはもう、自殺だよ。 アートの連中が、カメラを使うのは勝手だけど、カメラマンが、カメラ使ってアートするなよ。それこそ、自由のハキ違いってものだ。 言いたかないけど、カメラマンはバカが多いから、ノミの脳ミソほどの頭と、セコい小手先使って、たいそうなものを作ったつもりのシタリ顔だが、おまえさん、黄色いアンヨがみえてるゾ。 だいたい写真に、創作とか、創造とか、そんなものはないのだよ。 だから、カメラマンには、世間を複写する職人としてしか、生きてく道はないわけだ。 この程度のことさえわかっていれば、写真の明日だの、明日のぼくだの、そんなことどうだっていいわけで、どうにかなる以外、どうにもなりゃしないのだ。 たとえば、カメラやフィルムや、写真に関するいっさいが、どんどんテクノ・デジタル化していったところで、仮に写真がそっくり消滅してしまったところで、僕は全然困らない。 どうせ、そんなものについていく気などはじめからないし、もともとコメディアンになりたかったのだ。 もし明日、カメラとフィルムが消えていたら、ぼくは四谷三丁目に住んでいるから、ドトールでコーヒーを飲んでから、セイフーか丸正に行く、そして、お酢と卵をしこたま買って帰り、その酢と卵白とを調合し、ボール紙か布切れに塗って、感光材を作る。 そして、その上になんでもいいから、そこらへんのものを適当に乗っけて、お日さまの下に持って出て、ぼんやりタバコなど吸いながら、じっくりと焼付けの終わるのを待っている。 これでもう、あの昔なつかしい日光写真ができるのだから、ジタバタ騒ぐことはない。 つまり、時代と逆行して、ニエプスのころまで帰ればいいのだ。 となれば、もう何事も考えることもなければ、ややこしく掘り下げることも、未来も予知もない。 でも、こんなことばかり記していると、アンタ、なにを前世紀の化石みたいなことばかり言ってんの、といわれそうだが、まったくそのとおり、だからぼくは日ごろから、写真は光と時間の化石だ、と言ってるわけ。 おしまいに、「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい」という、ぼくの大好きなフレーズを、どうぞ。 「プリンツ21」 1997年 秋号
「プリンツ21」 1997年 秋号
急に寒くなった。みんな「寒い寒い」が挨拶みたいな、いや、いきなり冬って感じ。ほんとの冬はもっと寒いんだけど。
で、思いだしたのが、40年前、たぶんちょうど10/25だったような、北海道で初めて冬を迎えるんだけれど、もちろんきょうの大阪なんかよりはるかに寒いよ。それでも早く雪が見たくて、札幌からもっと北に行ったら雪が見れるだろうと、浅はか単純な考えで、徹夜明けの朝6時過ぎの各停に乗って稚内まで12時間の汽車の旅。稚内に着くまでいろいろあるんだけど、それはいまは割愛して、稚内に着いたら、すっかり日が暮れて暗い町中をYHさがしてとぼとぼ歩いたって思い出。冷たいみぞれが降ってたな。結局この1泊の旅で雪は見れなかったんだけど。 あれは何年目の冬だったかな、11月1日、大通り公園でスライディングしてたよなぁなんてこと思いだしてたのです。しかし寒いね。
某クンのツイート 《僕のセンチメンタリズムをギュッと握られたい。》
いいねぇ、このフレーズ。どっかで使えないかしら。というわけで、きょうはビックリサプライズでうれしかったりして。そして遅い目にN村さんがやって、なぜかまた熱く語る。きのうはサイトーさんとやし、なんかここ最近熱く語り過ぎちゃうやろか。男は黙ってアリナミンV
やっとのことで、ヤフオクに出品してたのが売れた。よっぽど捨ててやろうかと思ってたのだが、ただ捨てるというのもイラつくのでずっと再出品し続けてたんよ。時には36875円などという法外な値を付けて、値引き交渉ありにして、なんぼでもいいと弄んでもみたのだけど、はははっ、1円でめでたく落札されました。同時に、なんでこんなの買ったんだというヒップホップのCDが11円にてこれまためでたく落札。この2点、ずっと困ってたんよね(苦笑) さて、なんでイラっと来たかというと、あとがきに、誰それに感謝とよく書いてるんだけれど、何をとち狂ったのか、「出版社には別に感謝していません」をっと、なんという高飛車な。そんなことは大文豪でも書かんでしょ。オレはくだらねぇ物書きだと自ら表明してるようなもんです。それだけでなく、あとがき全体が、あんた何様なんよいう調子で、まぁ、最初にあとがき読むのがアカンのかもだけど、ちらっと読んでつまらなくて、ぱらぱらとめくったら文章すこすこだし、こんなんでどの面さげてこんなあとがき書けるんだろって、まぁあんまり気分よくなかった。本棚から消えてくれてホッとしたよ。てか、意地はってないで、捨てなさいよ>自分
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」