『ジーン・セバーグ:アメリカン・アクトレス』と『ジーン・セバーグの日記』の2本立てDVD《ジーン・セバーグ コンプリート》 あは、ジーン・セバーグって、むちゃよう知ってるようで、『勝手にしやがれ』しか知らんじゃないの((((((((o_△_)o 。あ〜、そっか、そっか、discasのレンタル候補リストに『悲しみよ、こんにちは』があるのは、そのジーン・セバーグでたどったのか、なるほど。 ボクには、ジーン・セバーグってのはまさに『勝手にしやがれ』でしかなくて、完全にヌーベル・ヴァーグ女優のイメージだったのだが、アメリカ映画なんですね。そして、彼女をデビューさせたオットー・プレミンジャーなんて、ボロっくそ。あ、いきなりでは意味がわからんか^_^; あのですね、ジーンは最初、オットー・プレミンジャーの『ジャンヌ・ダルク』にオーディションを受けて見出されたわけです。その当時のオットー・プレミンジャーってのはハリウッドのバリバリの監督で、あのマリリンの『帰らざる河』ですね。で、その映画が当たったかというと失敗。そのリターンマッチが『悲しみよ〜〜』。ところがこれまた興行的に失敗。オットー・プレミンジャーなんか、この『ジーン・セバーグの日記』ではクソみそですね。そりゃそうだわ。ジャンヌ・ダルクが火刑に処されるシーンで、事故なのか、ほんとうに炎がジーン・セバーグを舐めた。それを撮影していて、そのままカットを使った。このことについて《綿密に作り上げた方が説得力は優るはず。現実イコ−ル説得力ではないことの証明》とこの『〜〜の日記』では言う。あり得ない話じゃないな、アメリカ映画なんて、事故とみせかけて故意に、ジーン・セバーグを火あぶりにするなんて。それをまた興業的に話題にするなんざ...ありゃ、ここでレビュー書くつもりじゃなかったのに^_^;
《ほら、カメラ目線 監督にやれと言われたの》 この字幕にハッとしてしまう。
《演技の鉄則 カメラを見るな 必死で作った幻想が崩れるから》 写真、撮るときに、彼女の目線を避けてませんか? 彼女の目線から逃げてませんか? いや、ちゃんと、彼女、カメラのほうを見てますよって、でもカメラのほうを向いていても、焦点合わさせてないもの。
《カメラ目線は観客全員と目を合せることだ 本来は崩してはならぬ壁 演技とはスタッフ200人の前で自然を装うこと カメラは無視》 映画と写真のちがいは、映画はあくまでも演技を撮るもの。それに対して、写真は、本来、演技を撮ろうとしない。映画のスチールカメラのつまらなさはそこにあるのか。装う? 装っているものに、カメラを回すが、シャッターを切れるのか。
《カメラは必要以上に長く私をみつめる ガルボじゃないのだから見せるものは尽きたのに それでもカメラは待つ 私の表情から意味を見出すのは無理》 《私は観客と何かを共有しているかのようだ 私の表情は解釈を拒む 何かを読み取れるとしたら それはあなたの思い違い》 そう、あなたの思い違い、あなたの思い上がり。解釈は拒まれているのさえ気づかない。
《顔が送る信号は誤解を生むもの 表情にしろ 顔の動きにしろ 何かを明かしそうでかえって謎を残す》 映画は演じる役者がいて、観客はまず役者を見る。監督、カメラマンは二の次。それに対し写真では、被写体ではなく、写真家に目が向けられる。そこで、何かを明すことが有意義なのか。それなら、あえて誤解を孕ませよう、謎をばらまくことができれば。
それはそうと、「映画史とは少年が少女を撮ってきた歴史」とはゴダール。