最近のトイレ本はサライの10年ほど前のバックナンバー。適当にうんこ時間にちょうどいいのだ。 一瞬、美文に見えるのだが、なんともかんとも残らない文章、サライの文章のすべてがそうってわけじゃないのだけれど、読んでいて非常にイラついてきた。それは お屋敷をつかったレストランの紹介なのだが、書き出しが 「東京大学農学部のある、本郷弥生町の交差点からゆっくりとお屋敷街を歩くこと約10分。」 この文章自体いやらしさを感じる。すっと「本郷弥生町の交差点からゆっくりとお屋敷街を歩くこと約10分。」でいいじゃない。東大をもってくることでイメージを補完してるつもりだろうけど。さらに、なんで「東京大学」でなくて「東京大学農学部」なのか。東大ってそんなに広い? もう少し読むと「もとはといえばこのお屋敷、明治時代に活躍した、東京帝大教授の櫻井省二氏が建てたもの。」 ぅ〜〜む(-。-;) これらの修飾のいやらしさがつきまとって、伝えるべきことが見えてこない。たぶん中身はないのだろう。きっと、このレストランも構えばかりで出てくるのはさむい料理なんじゃないのかとまで感じさせる。はて、何料理のレストランなんだか、どんな料理かという記述が、書いてあったのか、さっぱり残ってこない。 正確に引用しようとわざわざトイレまで取りに行った。すると見出しにでっかく
「和洋折衷、造船学者の屋敷 本格派フランス料理」
本格派フランス料理」
とあった。行かない。 こういう文章というのは、書いたらいかん文章の典型じゃないか。なにも文章に限ったことではないのだけれど。
でも撮影者の、そして被写体の思惑も無視して、何かが写ることがある。その何かが写ってしまうという、写真のからくりが、僕にはとても興味深く思えるのです。
ああ、そこには「人間」がいました。計算しつくすことなんて不可能で、きっと間違っていて、分からず屋で、それでも、それだからこそ血が通っていて、こんなにも温かい、「人間」がいました。血こそ流れませんでしたが、汗と涙は実際に流れました。
なんとはなしに、ゆっくり日記を書く余裕がなくて、気になったことをミクシにささっとメモっては、こちらに記してるのだけれど、きょうもその12/5分を整理して発見。この2つの引用は、偶然とはいえ、妙な整合性があるね。へへへ。。。だからもう一度引用。引用元は12/5のうらまご参照。