この2週間、多くの方に見に来ていただいてありがとうございました。 と、いちおうご挨拶_(._.)_
きょう最終日はまたちょっと同窓会状態に。中学の同期の旧姓Tさん来訪。全然、知らなかった接点が発覚。というのは、ボクは小3までNHK児童劇団に在籍したのだが、小4になるときにほぉり出されて、そのあとに旧姓Tさんが入団していた。昔のアルバムをひっぱり出して来たら、「あ、クロちゃんや」と。そのクロちゃんボクも覚えてました。あれから50年クロちゃんとは全くアカの他人なのだが、不思議なつながり。ま、そのような昔の暴露話で勝手に盛り上がっていた2週間でもあったのです。
それはそうと、『詩写真(仮)』は最後まで(仮)が付いたままだった。「え?(仮)付いたままなの?」とよく聞かれた。そのことに関して、高田さんは明確な解釈を示してくれた。 彼女が高校の美術部時代に3校合同の美術展を開いていたのだが、その展覧会名は彼女が名付けたのだが「寓展」。寓展はそれ以後、10何年か続いて開催されたらしい。さてその「寓」という漢字こそ「(仮)」なんだという。つまり寓居の寓、仮住まいだと。「これで完成ですか」と言った人がいるのだが、いまこうして展示や一冊の本となって、一見完結したように見えても、やはりこれは「寓」つまり仮住まいでしかない。元々、詩も写真も、高田さんとボクそれぞれが独立してあったものをコラボレーションさせた。どちらが寓なのか、どちらがそこに棲む人なのか、この際関係ない。どちらも寓であり、どちらもそこに棲む人である。その意味で『お互いが「ため」にしてないのがいいね』※と評してくれた人がいたのはありがたかった。気がついた人がいるかもしれないが、5月の展示のときと、棲み家を変えた作品もある。より棲み良い寓をさがしただけだ。5月の展示は展示で(仮)で、今回の展示も(仮)である。そしてもちろん一冊の本も(仮)である。もっと言うならば、作品に完成などないはずである。詩も小説も作者が死ぬまで形を変えて行くものだ。写真はどうだ?そこに提出された写真はそれで完成のように見えるだろうが、次にプリントされるときは何らかの違いがあって当然である。だから完成なんてありえない話なのだ。あくまでも(仮)でいい。そのことはこうした作品についてだけでなく、生きるということについてもそうじゃないのか。仙人なんていやしない。 そしてもう少し辞書をくってみると、「寓」というのは、寓話、寓意というように、詩と写真がお互いに「かこつけて,それとなくある意をほのめかすこと」 まさに表現したかったのはそれだったのかと思う。いや、ほのめかすと見せかけただけだ。ある意は見る人が勝手に妄想してくれたらいい。それを横でほくそ笑んでいたい。
『詩写真(仮)』のあとがきにも記したけれど、とにかくボクのわがままにつきあってくれた高田さんにはありがとうと言いたい。今年1年のいちばん大きな仕事がやっと一段落ついてちょっとホッとしたよ。
※『お互いが「ため」にしてないのがいいね』というのは、ちょっと聞き間違えていたようだ。正確には『お互いが』ではなくて、『コラボの「ため」にしてないのがいいね』ということのようだ。つまり「さぁ、コラボレーションしますよ」としてないのがいいというわけである。組み合わせてみるとおもしろいだろうという単純な発想からスタートして、ただそこにあった素材となる詩と写真を組み合わせただけである。そしてその狙いは上にも書いたように、その解釈は見る側に任せてほぉり投げてみただけである。だから『コラボの「ため」にしてないのがいいね』と言ってもらえたのはもっとありがたい評だった。
※※ 「ためにする」小学館『現代国語例解辞典第2版』では《ある目的を遂げようとする下心を持って、また、自分の利益を図る下心があって事を行う。》だという。はてなキーワードでは「ためにする議論」とは《何らかの意図のために、あらかじめ結論を決め、都合のいい論拠だけを挙げているような議論》とあって、さらにしょぼい新和英中辞典には「幹事長の発言には何か政治的にためにするところがあった」という例文があがっていた。つまりその人が言いたかったのは《ためにするコラボでないのがよかった》と。そういう意味だったのか。日本語は難しい。そいう用法って知らなかった(恥) はいはい、と聞いていたのだが、なるほどそう受け取ってもらっていたなら、なおさらありがたい評であった。